阿蘇山西巖殿寺は、神亀(じんき)3年(726年)、天竺より来た最栄読
師(さいえいとくし)によって聖武天皇の許しを得て開かれました。
最栄読師は、阿蘇山の火口の西の洞窟に自ら刻んだ十一面観音を安置し、
人々がこれを阿蘇山の西の巌殿(いわどの)と呼んだことが阿蘇山西巖殿寺の由来となっています。
阿蘇山西巖殿寺は、加藤清正公の時代に麓の黒川村(現在の阿蘇駅周辺)
に移されました。
当院は、阿蘇山西巖殿寺の奥之院です。
熊本に現存する最古の寺で、約1,300年の歴史がございます。
長い歴史の中で、阿蘇地方に伝わってきた「オンダケサンマイリ」の
習わしから“縁結び”を願う人々が多く訪れ、また度重なる噴火にも耐えて阿蘇山上に存在し続けることから“厄除け”の御利益があるとも伝えられております。
良縁成就を願われる方、今の御縁を大事になさりたい方は、ぜひご参拝下さい。
阿蘇山には、室町時代から戦前まで行われていた阿蘇講「オンダケサンマイリ」という行事があります。
最も盛んだったと伝えられる江戸時代には、春と秋の彼岸に山伏の先導で人々が山を登り、火口をお参りしていました。
こうして火口をお参りすることを「オンダケサンマイリ」と呼んでいたのです。
昔は今のように自由に旅行することもできなかったため、農閑期に「寺社仏閣へのお参り」という名目で旅行することを、人々は本当に楽しみにしていたそうです。
古来より山は神秘的なもので、彼岸の行事として山を登るという形態は全国的に多く見られます。
阿蘇山では火口詣でが目的とされ、現在の阿蘇山上神社の裏にある「写経ヶ橋(別名を左京ヶ橋)」を渡ることに重きが置かれました(現在では安全上の規制により立ち入りが禁止されています)。
「写経ヶ橋」は溶岩の流れた痕で、ごつごつと隆起しており、蛇腹のような形をしています。
心が清らかな者でなければ、この「写経ヶ橋」がまるで大蛇のように見え、渡ることができないといわれていました。
この橋を渡ることが結婚の条件とされた時代もあったそうで、特に若い女性には重視されたと伝えられています。
この地方においては、「写経ヶ橋」を通って「オンダケサンマイリ」をすることは通過儀礼であり、これによって結婚の資格を得ると見なされていました。
伝承では、「オンダケサンマイリ」で夫婦の契りを交わすことも多かったといわれ、古来より阿蘇は縁結びの山として信仰されてきたと伝えられています。
昔むかし江戸のころ、熊本に大きな米問屋があり、年頃の娘がおりました。
当時の熊本地方では、年頃の娘たちは「写経ヶ橋」という橋を渡って霊山阿蘇山を詣でるのが常でした(オンダケサンマイリ)。この娘も例に漏れず、七人の同じ年頃の娘たちを誘い、縁起の良い日を選んでいそいそと出かけていきました。
きれいな着物にはやりの京極どんすの帯を締め、めかしこんだ娘たちが阿蘇を目指して大津の町を歩くと、若い衆が表へ出てきて誉めそやします。さらに進んで阿蘇坊中の町で、娘たちはお坊さんに道を尋ねました。
「お坊さん、阿蘇のお山まではあとどのくらいでしょうか」
「ここから三里登って一里下ったところですよ」
「お坊さん、ありがとう」
やがて娘たちは「写経ヶ橋」にたどり着き、順に橋を渡っていきます。
ところが七人の娘たちが渡り終え、いざ米問屋の娘が渡ろうとしたところ、美しく結い上げた娘の髪の元結が、なぜか突然切れてしまったのです。風もないのに娘の髪はバラバラにひどく乱れ、めかしこんだ髪が台無しになってしまいました。
立ちすくむ娘に、連れの一人が「手を引いてあげましょう」と対岸から手をのばします。ところが米問屋の娘には、眼下の
写経ヶ橋が猛り狂った大蛇に見え、足を踏み出すことができません。
「皆は先にお行きなさい。私は恐ろしくて渡ることができません…」
実はこの娘の両親が営む米問屋は、仕入れのときには大きな枡、売るときには小さな枡という二重枡で店を大きくしていたのでした。「親の因果が子に報い」とはこのことだと人々は噂しました。
それからというもの、年頃の娘たちは、写経ヶ橋を渡って清廉潔白の証を立てなければ嫁に行けないといわれるようになったのだそうです。
(※残念ながら今では、写経ヶ橋周辺はガス規制のため立ち入り禁止となっており、実際に渡ることはできません。神の山としてあがめられる阿蘇を目前にして、静かな気持ちで祈りを捧げてみてはいかがでしょうか?)